2020年03月25日
有楽斎の戦
MRI の
撮影を待ちながら検査室前のベンチで「有楽斎の戦(講談社)」を乱読。

織田源五郎長益。
戦国の世をビビり乍ら生きる源五郎は本能寺の変後、太閤秀吉の世になって
茶坊主として無楽斎と号するも秀吉から
「楽しみが無いとはあまりにも寂しかろう”有楽”といたせ」
と言われ、織田有楽斎として武人から茶人へ・・・、
こうして、太閤の御伽衆として召し抱えられた。
波瀾に富んだ人生を送った織田源五郎長益の、有楽の生涯を写すがごとく
茶室如庵(国宝)は各地を点々としたが、昭和47年に犬山城下の佳境の地
に移築され、「有楽苑」と名付けられた。
桜でも愛でながら美味~い茶ぁでも、すすりたいですな。
撮影を待ちながら検査室前のベンチで「有楽斎の戦(講談社)」を乱読。

織田源五郎長益。
私は、十二男七女を生した父信秀の十一番目の男子としてこの世に生を享けた。
家督を継いだ兄とは、十三歳離れている。私にとって、兄は常に恐怖の対象だった。
弟といえど、落ち度があれば容赦なく罵声を浴びせ、時には満座の中で打擲する
こともある。
戦国の世をビビり乍ら生きる源五郎は本能寺の変後、太閤秀吉の世になって
茶坊主として無楽斎と号するも秀吉から
「楽しみが無いとはあまりにも寂しかろう”有楽”といたせ」
と言われ、織田有楽斎として武人から茶人へ・・・、
こうして、太閤の御伽衆として召し抱えられた。
波瀾に富んだ人生を送った織田源五郎長益の、有楽の生涯を写すがごとく
茶室如庵(国宝)は各地を点々としたが、昭和47年に犬山城下の佳境の地
に移築され、「有楽苑」と名付けられた。
桜でも愛でながら美味~い茶ぁでも、すすりたいですな。